RAW FILM blog

花火は平等だ

花火は平等だ。花火は花火でも、打ち上げ花火は平等だ。誰にでも見ること、体験することが開かれている。いつも、夏になり、打ち上げ花火を見る時にこの考えが僕の頭に浮かぶ。

 

季節は今、冬なのに今更なぜ打ち上げ花火なのかというと、映画「The Florida Project」の予告編を見ていて、その中で母と子供たちが野原で打ち上げられた花火を見てとても幸せそうにしているシーンがあり、僕がここ最近、その予告編を繰り返し見ていることにある。そのシーンを見て、ああ打ち上げ花火っていいよなあ、そうだよなあ、やはり平等なんだよなあと思ったからだ。僕がなぜ打ち上げ花火が平等だと考えるかというと、お金がなかろうがあろうが、多くの人がその時、その土地のどこからでも花火を見て楽しみ、そして感動することができるという理由からだ。万人に開かれたエンターテイメントだと思っている。打ち上げ花火を見ることでお金はとられない。

 

思うが、夜空に高々と打ち上げられた花火を、人は人生で何度くらい見る機会があるのだろう。そしてずっと記憶に残る花火の体験とは何度くらいあるのだろうか。ずっと記憶に残る花火の体験というのは、意外と数えるくらいしかないのではなかろうか。人が生きていき、年を重ねていくうちに、花火を見た記憶は人生のところどころに焼き付けられているものではないかと思う。あれは小学生ときに野っ原から見た打ち上げ花火だったとか、30代の頃、あの人と見たものだったというように。僕の場合で言えば、記憶に残っている打ち上げ花火の体験というのはおそらく5度くらいだ。
そのうちの一つは、僕が30歳の頃に見たものだ。高速道路を車で走っていた時、父がわざわざ車をパーキングエリアに停めて見せてくれた宮島の打ち上げ花火だ。その花火は父の立ち姿と、遠くに見える打ち上げ花火と一緒になって、僕の記憶の中に今でも残っている。

 

一つの花火が打ち上げられれば、それを見た多くの人がその人数分の花火の時間の記憶を持っているわけだ。花火から放たれた光と色は、その人の時間を記憶に焼き付ける。その花火の記憶を持ち続ける人、忘れてしまう人、様々だろうが、それだけの多くの人の記憶に残り、一気に楽しませる花火というものは凄いといつも見ていて思う。スケールは違うが、それは星や月や太陽に似た真っ直ぐさがある。花火は人を選ばず誰にでも分け隔てなく光と色を放ってくれる。

 

| 文章 | 23:05 | - | - |
天井と海

そういえば、昔、よく天井を見ていた。昔と言っても、20年前かそこらだ。自分がまだ22歳とか24歳頃とか、20代の前半だったと思う。天井を見ていたと言っても、その当時は時間だけはたくさんあったので、とにかく何もすることなくアパートの部屋で寝転がって天井を見ていた。そして、ぼうっとしていた。ぼうっとしながら、考えにふけっていたりしていた。考えにふけると言っても、考えたり想像していたりすることは、半分は卑猥なことであったり、今日あんなことがあったとか、昨日以前の過去のこととか、これからどうしていこいうかなど、そんなことだ。23歳の時、初めて作った短編映画(8丱侫ルムで撮った)にも男が部屋の狭いベッドに寝転がってぼうっと天井を眺めているシーンを撮ったぐらいだ。でも、いつか長編でそんなシーンをまた撮ってみたいと思っている。登場人物が自身のヤリキレナイ欲望や空虚さを持て余し、だがどうしようもなくただ寝転がって、天井をみているのだ。だが、現代が設定の映画でそういったシーンを撮るとなると、天井をみる時間は、スマホの画面を見たりする時間になったりするのだろうか、しなければおかしいのだろうか、わからない。じぶんが20代の時に、自宅に結構な人たちが、1台くらいはPCを持っていたが、もちろん寝転がって見れるタイプではなかった。今の20代は、ゴロッと寝転がって、ぼうっと天井を見る頻度は少なくなり、友人や知人からのライン・メッセージや、企業からの広告メールがきたりして、スマホを見上げ、天井を見る機会は少なくなっているのだろうか。だが、果たして、自分が天井を眺めて何か得れたことというのはあるのだろうか。得れたことはないかもしれないが、少しは気持ちが安らいだように思う。悶々としていようが、うまくいっていようがなかろうが、今ここに俺は存在しているんだなと妙に体感できていた時間だったと思う。そして、自分が所有できた本当にプライベートであり自分以外の誰も知らない眺めだった。いまでもよくそのぼうっと見ていたあの天井の眺めを覚えているくらいだ。その時にみた天井の像なんかまで。それは、一人で海辺に行き(その当時、海に近い場所に住んでいたので、よく海を見に行っていた)、「俺はこれからどうしていけばいいんだ…」と、海を見ていたときの、波の音を感じながら見たあの海のように覚えているからだ。自分が今でも時々思い出す、20代の一人の時間というのは、この天井を見ている時のものか、海をただただ見ていたあの時のものなんだ。

| 文章 | 05:38 | - | - |
平屋の家

小さな頃、平屋の家に住んでいた。高校二年ぐらいまでだろうか。その頃僕は借家で小さく二階建てではない、その一階建ての家に住んでいることを恥じていた。学校の友達のほとんどが二階建ての家に住んでいた。マンションに住んでいた友達もいたが、マンションは貧乏なようには見えなかった。結局、マンションの部屋も二階がないということで平屋に近いとよな、と今になっては思うのだが、何か違うように思えた。結局、自我の目覚めた子供にとっては貧乏に見えてないかどうか、それが重要なのだ。当時自分は平屋に住んでいることで貧乏だと友達に思われていると思っていた。それは自我が目覚め始めた小学5年くらいからだったように思う。

映画「ラ・バンバ」の主人公の気持ちがわかった。主人公が好きな女の子とのデートの帰り、自分の家から大分離れた裕福そうな家の前で車から降ろしてもらい、そのあと自分の見窄らしく見える家に歩いて帰るというシーンがあった。あの家も確か平屋だったような気がする。でも、小さな頃、住んでいた平屋を恥じていたのに、大人になり、夢で見る家族と過ごした風景には、いつもその平屋が登場するのだ。とても懐かしく、暖かく。

おもしろいのが、大人になった今となっては、一軒家に住めるのなら、平家の家に住みたいと自分が思っていることだ。木造の平屋で、味のある、そんな平屋に住みたいと思っている。玄関の扉はドアではなく、ガラガラッとスライドさせる感じで。

 

今年の元旦にその家を見に行ってみた。自分が住んでいた平屋は建て壊され、隣の平屋はかろうじてまだ残っていた。でも長いあいだ、誰も住んでいないようで荒れ果てていた。その土地は雑木林に変わろうとしていた。ガサッと何かが動いた。タヌキが顔を草むらから出した。こっちをじっと見つめている。タヌキと目を合せて「大丈夫だ、わかったわかった」と声に出し、ここはお前のねぐらになっているんだな、とつぶやきながら、その場を立ち去った。

 

| 文章 | 03:19 | - | - |
チャップリンの記憶
やらなければいけないこと、やりたいことは、たくさんあるのだが、読みたい本もたくさんあるし、映画もたくさんある。映画を観ることは基本であり、これは外せない。
先週、チャップリンの「街の灯」を観た。初めて観た。レンタルビデオ店でDVDを手に取りタイトルを見て、チャップリンの何々という書き方ができることが凄いことだなと思った。古典の部類に入っているということだ。古典でありずっと映画史に残っていくのだろう。シェイクスピアのようなもんだ。シェイクスピアの何々で誰もが分かってしまうような。

「街の灯」は素晴らしかった。自分の記憶の中でのチャップリン演じる男は比較的に身なりが小綺麗なイメージだった。自分のイメージは、チャップリン演じる男は放浪者であり、なんだか寅さんをもっと自由にした感じのイメージを持っていたのだが、それは違った。チャップリン演じる彼は路上生活者という設定だった。原語の英語でTrampという名でクレジットされていたが、意味合いは、放浪者ともとれるし、路上生活者ともとれるのではないだろうか。映画の中では、チャップリンの服は破れていて汚れていた。そして、物語の中でチャップリンが色々な事柄や人物たちへ抗い、服はさらに破れていくのであった。最後の方はズボンが可哀想なくらいビリビリになっているのである。その姿を観るだけでグッとくるものがあった。そして、観ていて、この映画の時代設定(撮影時期)の雰囲気をすごく感じるであった。街の景色や登場人物の雰囲気から、一歩間違えばすぐに命を落としてしまうのではないか、というような危うい雰囲気が映画の中に漂っているのである。それはフィルムのコマ数が少ないことから人々の動きが通常より速く見えるということもあるのだろうが、街で走っている車なんか見ても、とても運転や走りが危なっかしいのである(車の動きもコマ数の理由で速く見えてしまう)。登場する人物たちも、他人の命のようなものををあまり大して重く思っていないような表情や行動をするのである。これもコマ数で感じることなのだろうか。不思議だ。とてもその時代の空気感がリアルに伝わってくるのだ。おそらくチャップリンのキャラクターからもインスパイヤーされている「男はつらいよ」シリーズの寅さんを観ていていつも僕が思っていたのが、寅さんは同じ服をいつも着ているが、寅さんはとても小綺麗なのである。ヒゲもちゃんと剃っていた。寅さんは柴又の実家があるということで本当の放浪者というわけではないのだろう。そこが、チャップリンの役柄とは決定的に違う。結局、寅さんとチャップリン演じるTrampの違いは、寅さんには帰る場所があり、Trampには帰る場所がないということなのだ。
でもあのチャップリン演じるTrampが目の不自由な娘を助けるために、当然のような顔をした世間形式の中で、もがき抗う姿は観ていて辛くもあり感動もした。
 
| 文章 | 23:41 | - | - |
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